このブログについて


徒手帳の住所欄に、ぼくは一言、風街と書きこんで、内ポケットに入れていた。新学期が始まった日、地図帳を広げて、青山と渋谷と麻布を赤鉛筆で結び、囲まれた三角形を風街と名付けた。それはぼくの頭の中だけに存在する架空の街だった。たとえば見慣れた空き地に突然ビルが建ったりすると、その空き地はぼくの風街につけ加えられる。だから風街の見えない境界線はいつも移動していた。
——— 松本隆微熱少年』(新潮文庫


 十九歳の秋、祖父の形見の二眼レフカメラを持って東京中を歩き始めた。
 その年、浪人生だった僕は、予備校をサボって某編集部に出入りし、空いた日には現代美術の展覧会巡り、というダラダラとした日々を送っていた。ある日、打ち合わせで訪れた美術家のアトリエで、棚にある一冊の本が目にとまった。それは『看板建築*1』という本だった。この本は、“作者未詳の芸術”ともいえる、戦前に建てられた無国籍な商店や民家の写真で溢れていた。

 「これは現代美術を追いかけるよりも面白いぞ!」

 かくして僕は、アナログなカメラを携えて、東京の下町や山手を毎日のように歩き回り、街なかの芸術作品の前でシャッターを切り続けた。東京生まれの東京育ちだが、それまで繁華街以外の街をくまなく歩いたことは一度もなかった。この“旅”は、その後一年半ほど続いた。そして、歩き始めてから一年も経たない頃、都内に残る戦前の無名建築をガイドした同人誌を自費出版した。二十歳のことだった。

 その後、僕は編集者になった。数回の引越で半分以上の写真と全てのネガフィルムを紛失してしまったが、最近になって本棚の中に押し込められていたプリントが二百葉ほど見つかった。発表するあてもなく、ただ何かに衝き動かされるようにして撮影した写真は、どれも素人作品の域を出ないものばかりだが、かつて撮影して回った建物のほとんどが姿を消したいま、どれも貴重な写真となってしまった。

 あの一年半は、僕の深くて短い青春の最後の〈時間〉だったのかもしれない。

※これから週1〜2回のペースで、19〜20歳の自分が撮影した、東京の失われた風景の写真をアップいたします。拙い写真ばかりで恐縮ですが、ご感想などをいただけたら幸いです。

*1:東京及び関東近県で関東大震災以降に建てられた装飾付きの商店建築のこと。実際に看板がくっついているわけではなく、のっぺりとした板状の外見にモルタルや銅板製の装飾が施されている様子がまるで看板のように見えることから付いた名前。命名者は、路上観察学会員で東大生産技術研究所教授の藤森照信氏。