「イオニア」の森


 街歩きを始めたばかりのある平日のこと、『看板建築』(藤森照信著、三省堂選書)という本に載っていた「日増や」という、中華料理屋と和菓子屋が一緒に入った、和洋折衷ならぬ〝和中折衷〟商店の持ち主に話を聞こうと、布団の中で急に思い立った。当時、自費出版していた同人誌の連載コーナーに、持ち主のインタビューを載せるためだった。

 この「日増や」は、前々から気になっていた極めて珍しいデザインの看板建築だった。なにせ、お店の正面には、ギリシャ建築様式の「イオニア*1」と呼ばれる渦巻き型の頭を持つ柱が「これでもか、これでもか」と、いくつも並んでいるからだ。藤森先生が書かれた件の本でさえ、この建物を「根津のイオニアの森」と命名した以外は、ほんの数行の解説があるばかりで、どのような経緯で建てられたお店なのかも記載がない。そこで、「よし、勢いで強行突破してみるか」という結論に達したのだった。
 現地に着いたときは、もう午後一時半を回っていた。お昼時は過ぎたとはいえ、まだ暖簾も出ていることだし、と中華料理屋の扉を思い切ってガラリと開けてみた。目の前には白衣を着た恰幅のいいご主人がヒマそうに新聞を読んでいて、こちらの方をジロッと見る。…とりあえずラーメンあたりの無難なメニューを注文して時間を稼ぐことにした。
 思った以上にシンプルなラーメンは、あっという間に食べ終わってしまった。ついに観念して、
「あのー、この建物はいつ頃のものなんですか?」と、おそるおそる話しかけてみた。
 一瞬、主人の顔が曇った、かに見えたが、それは極度の緊張による錯覚だったのかもしれない。すぐにニッコリ顔になって、いろいろと話を聞かせてくれた。
「ここは、昭和の初めに建てられたらしいから、もう七十年くらい経っていることになるね。当時は、椿油なんかを売る油問屋だったそうだよ。それが、戦後になって、ポマードや何かの影響でつぶれてしまったらしい。うちらがここに入ったのは、昭和四十二(一九六七)年だった。当時でも、この辺りの古い建物はうちくらいだったね。最近は、建築科の学生さんが卒論に書きたいので話を聞きたいって、よく訪ねに来るよ。昔は、三階部分の手すりがモルタル製で、松の木の形がくり抜かれたものだったんだけど、七、八年前に新しくしたんだ。西洋的な外見なのに和風の装飾が付いてるから、みんな珍しい建物だって言ってたね」
 なるほど、本に載っているくらいだから訪ねに来る人も多いらしく、こういう質問には慣れていたのだった。主人は続ける。
「この通りも、あと十年くらいの間に拡張工事で広がるんだよ。当然、うちも壊されるんだろうけど。江戸東京たてもの園ってところから、保存してほしいとか、援助金を出すとかいう話がきたんだけど、断ったんだ。直さなければならないところもたくさんあるし、痛みもひどいし、なかなか維持できないね。なにせ、古い建物だから」
 そう話す主人の口は笑っていたが、目はどこか淋しげだった。そして、天井を眺めながら、こう付け加えた。
「入口の上の飾り窓は当時のままで、色ガラスが入ってるんだ。一階は昔、吹き抜けになってて、天井はお寺とかにある升目の入った「格天井」だった。当時としては立派な建物だったんだろうねぇ」
 この言葉は、ここに住み続けてきた住民の「誇り」にも聞こえた。口では残したくないと言っていても、ご主人の家に対する「愛おしさ」は充分伝わってくる。こちらとしては、このまま残してほしいと思うが、維持する側のことを考えるとなかなか難しい。「また来ますね」との言葉を残して暖簾をくぐり、反対側の道路に渡ってカメラのシャッターを切った。そして、これが最初で最後の「日増や」訪問となった。

 数年後、店は取り壊された。いや、厳密には、通りから姿を消していた。もう、あのご主人にも、あの「イオニアの森」にも逢うことはできない。そう誰もが思っていたに違いない。だが、違った。ご主人の消息こそ分からないが、「日増や」の建物は江戸東京たてもの園に保存されていた。バラバラに解体されて何年か倉庫に寝かされたあと、椿油の問屋だった頃の姿に復元されて、文字通り「日の目を見た」のである。ご主人にどんな心境の変化があったのかは知る由もないが、「イオニアの森」の列柱たちは、今も武蔵野の深緑に囲まれながら、あの時食べたラーメンのナルトのように渦を巻き続けているのである。

*1:古代ギリシア建築における建築様式(オーダー)のひとつwikipedia:イオニア式