東京の「隠れ里」、浅草橋


町中に突然姿を現す「下町の丸ビル」。ベルトのバックルなどを扱う企業の社屋で、現在は美容院に建て替えられている。


 台東区浅草橋。JR総武線「浅草橋」駅周辺は、江戸通り沿いを中心に、包装用品と日本人形の問屋が集中する問屋街である。一大観光地の「浅草」に名前は似ているが、隣接している地域ではない。江戸通りを一歩裏に入り、しばらく住宅街を進むと、戦災を免れたことによって残った戦前からの民家や商店、ビルなどが街のあちこちに点在している地域がある。住所的には「鳥越」「台東」あたりが、道も細く古い建物が多く残っていた。大きな道路が多くないこと、駅が遠いことなどが幸いして、東京の中心地にも関わらず、奇跡的に戦前の雰囲気が残っている。まさに東京の「隠れ里」と呼ぶにふさわしい場所だ。先日久しぶりにこの辺りを通ってみたところ、昔撮影した時とほとんど変わらない場所も多かったが、約半分近くの建物が姿を消していたことに驚いた。名作と呼べる建物ほど現存していないのはとても残念でならない。


忍岡高校近くにあった和菓子工場。木製のケースが店頭に置かれている光景を何度か目撃したことがある。銅板貼りの木造にも関わらず3階建てはとても珍しい。ここも一般住宅に建て替えられてしまっていた。


味噌屋さんとカメラ屋さんの二軒長屋。モルタルと銅板が隣り合わせで建ち並ぶ珍しい風景だったが、ここもいつのまにかマンションに建て替わっていた。

文京区本郷という「魔界」


1994年撮影のニイミ書房。いつの間にか取り壊され、今は弁当屋さんに建て替えられた


 東京都文京区本郷。この地域には特別な思い入れがある。なぜなら、卒業した高校があり、予備校があり、バイト先があり、出入りしていた編集部があり、そして僕が「看板建築」と出逢った場所でもある。

 このブログの「はじめに」で書いた『看板建築』という本と出逢った美術家のアトリエは本郷にあり、その家がのちに出入りすることになる編集部の建物として使われることになったのも偶然とはいえ不思議な感じだ。その頃、面接がたまたま受かったバイト先が本郷にあったレストランだったし、看板建築に関心を持ったのも本郷の大横丁通りという商店街の薬局の建物だった。当時の僕にとって、本郷はいわゆる「パワースポット」あるいは現実離れした四次元の“魔界”だったのかもしれない。本郷は先の大戦で被害が少なかったため、戦前の建物や路地が多く残っている地域だ。だから、昔から土地に住む「地霊」が、不思議な力を与えているのだと思う。

 そんな縁の深い本郷には思い入れのある建物がいくつもある。東大正門の対面にあった街の小さな本屋「ニイミ書房」に古書店の「大学堂書店」、大横丁通りの「百貨せきぐち」「化粧品カサイ」…これらの建物はここ十数年のうちに姿を消してしまった。とくにニイミ書房の建物は奇抜なデザインで、赤いファサード*1が印象的だった。まさしく本郷という“魔界”の神殿のようで、取り壊されてしまったことが今でも悔やまれる。



1994年撮影の大学堂書店。三味線屋さん「小川楽器店」との二軒長屋だった。



1994年撮影の百貨せきぐち。街の小さなディスカウントショップで、販売品目を壁に貼っていた跡が残っていた。



1995年撮影のラーメン堀内。丸窓の跡や不規則な造形などはダダイスム*2の影響をうかがわせる。

*1:建築物の正面デザインのこと

*2:1910年代半ばに起こった芸術運動の一つ。既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想を大きな特徴とする。wikipedia:ダダイスム

「イオニア」の森


 街歩きを始めたばかりのある平日のこと、『看板建築』(藤森照信著、三省堂選書)という本に載っていた「日増や」という、中華料理屋と和菓子屋が一緒に入った、和洋折衷ならぬ〝和中折衷〟商店の持ち主に話を聞こうと、布団の中で急に思い立った。当時、自費出版していた同人誌の連載コーナーに、持ち主のインタビューを載せるためだった。

 この「日増や」は、前々から気になっていた極めて珍しいデザインの看板建築だった。なにせ、お店の正面には、ギリシャ建築様式の「イオニア*1」と呼ばれる渦巻き型の頭を持つ柱が「これでもか、これでもか」と、いくつも並んでいるからだ。藤森先生が書かれた件の本でさえ、この建物を「根津のイオニアの森」と命名した以外は、ほんの数行の解説があるばかりで、どのような経緯で建てられたお店なのかも記載がない。そこで、「よし、勢いで強行突破してみるか」という結論に達したのだった。
 現地に着いたときは、もう午後一時半を回っていた。お昼時は過ぎたとはいえ、まだ暖簾も出ていることだし、と中華料理屋の扉を思い切ってガラリと開けてみた。目の前には白衣を着た恰幅のいいご主人がヒマそうに新聞を読んでいて、こちらの方をジロッと見る。…とりあえずラーメンあたりの無難なメニューを注文して時間を稼ぐことにした。
 思った以上にシンプルなラーメンは、あっという間に食べ終わってしまった。ついに観念して、
「あのー、この建物はいつ頃のものなんですか?」と、おそるおそる話しかけてみた。
 一瞬、主人の顔が曇った、かに見えたが、それは極度の緊張による錯覚だったのかもしれない。すぐにニッコリ顔になって、いろいろと話を聞かせてくれた。
「ここは、昭和の初めに建てられたらしいから、もう七十年くらい経っていることになるね。当時は、椿油なんかを売る油問屋だったそうだよ。それが、戦後になって、ポマードや何かの影響でつぶれてしまったらしい。うちらがここに入ったのは、昭和四十二(一九六七)年だった。当時でも、この辺りの古い建物はうちくらいだったね。最近は、建築科の学生さんが卒論に書きたいので話を聞きたいって、よく訪ねに来るよ。昔は、三階部分の手すりがモルタル製で、松の木の形がくり抜かれたものだったんだけど、七、八年前に新しくしたんだ。西洋的な外見なのに和風の装飾が付いてるから、みんな珍しい建物だって言ってたね」
 なるほど、本に載っているくらいだから訪ねに来る人も多いらしく、こういう質問には慣れていたのだった。主人は続ける。
「この通りも、あと十年くらいの間に拡張工事で広がるんだよ。当然、うちも壊されるんだろうけど。江戸東京たてもの園ってところから、保存してほしいとか、援助金を出すとかいう話がきたんだけど、断ったんだ。直さなければならないところもたくさんあるし、痛みもひどいし、なかなか維持できないね。なにせ、古い建物だから」
 そう話す主人の口は笑っていたが、目はどこか淋しげだった。そして、天井を眺めながら、こう付け加えた。
「入口の上の飾り窓は当時のままで、色ガラスが入ってるんだ。一階は昔、吹き抜けになってて、天井はお寺とかにある升目の入った「格天井」だった。当時としては立派な建物だったんだろうねぇ」
 この言葉は、ここに住み続けてきた住民の「誇り」にも聞こえた。口では残したくないと言っていても、ご主人の家に対する「愛おしさ」は充分伝わってくる。こちらとしては、このまま残してほしいと思うが、維持する側のことを考えるとなかなか難しい。「また来ますね」との言葉を残して暖簾をくぐり、反対側の道路に渡ってカメラのシャッターを切った。そして、これが最初で最後の「日増や」訪問となった。

 数年後、店は取り壊された。いや、厳密には、通りから姿を消していた。もう、あのご主人にも、あの「イオニアの森」にも逢うことはできない。そう誰もが思っていたに違いない。だが、違った。ご主人の消息こそ分からないが、「日増や」の建物は江戸東京たてもの園に保存されていた。バラバラに解体されて何年か倉庫に寝かされたあと、椿油の問屋だった頃の姿に復元されて、文字通り「日の目を見た」のである。ご主人にどんな心境の変化があったのかは知る由もないが、「イオニアの森」の列柱たちは、今も武蔵野の深緑に囲まれながら、あの時食べたラーメンのナルトのように渦を巻き続けているのである。

*1:古代ギリシア建築における建築様式(オーダー)のひとつwikipedia:イオニア式

このブログについて


徒手帳の住所欄に、ぼくは一言、風街と書きこんで、内ポケットに入れていた。新学期が始まった日、地図帳を広げて、青山と渋谷と麻布を赤鉛筆で結び、囲まれた三角形を風街と名付けた。それはぼくの頭の中だけに存在する架空の街だった。たとえば見慣れた空き地に突然ビルが建ったりすると、その空き地はぼくの風街につけ加えられる。だから風街の見えない境界線はいつも移動していた。
——— 松本隆微熱少年』(新潮文庫


 十九歳の秋、祖父の形見の二眼レフカメラを持って東京中を歩き始めた。
 その年、浪人生だった僕は、予備校をサボって某編集部に出入りし、空いた日には現代美術の展覧会巡り、というダラダラとした日々を送っていた。ある日、打ち合わせで訪れた美術家のアトリエで、棚にある一冊の本が目にとまった。それは『看板建築*1』という本だった。この本は、“作者未詳の芸術”ともいえる、戦前に建てられた無国籍な商店や民家の写真で溢れていた。

 「これは現代美術を追いかけるよりも面白いぞ!」

 かくして僕は、アナログなカメラを携えて、東京の下町や山手を毎日のように歩き回り、街なかの芸術作品の前でシャッターを切り続けた。東京生まれの東京育ちだが、それまで繁華街以外の街をくまなく歩いたことは一度もなかった。この“旅”は、その後一年半ほど続いた。そして、歩き始めてから一年も経たない頃、都内に残る戦前の無名建築をガイドした同人誌を自費出版した。二十歳のことだった。

 その後、僕は編集者になった。数回の引越で半分以上の写真と全てのネガフィルムを紛失してしまったが、最近になって本棚の中に押し込められていたプリントが二百葉ほど見つかった。発表するあてもなく、ただ何かに衝き動かされるようにして撮影した写真は、どれも素人作品の域を出ないものばかりだが、かつて撮影して回った建物のほとんどが姿を消したいま、どれも貴重な写真となってしまった。

 あの一年半は、僕の深くて短い青春の最後の〈時間〉だったのかもしれない。

※これから週1〜2回のペースで、19〜20歳の自分が撮影した、東京の失われた風景の写真をアップいたします。拙い写真ばかりで恐縮ですが、ご感想などをいただけたら幸いです。

*1:東京及び関東近県で関東大震災以降に建てられた装飾付きの商店建築のこと。実際に看板がくっついているわけではなく、のっぺりとした板状の外見にモルタルや銅板製の装飾が施されている様子がまるで看板のように見えることから付いた名前。命名者は、路上観察学会員で東大生産技術研究所教授の藤森照信氏。